玉川上水の開削の経緯と工事の難航について、さらに詳細に掘り下げてみましょう。
玉川上水の開削計画
玉川上水の開削は、江戸の飲料水不足を解消するために、1652年(承応元年)11月に幕府によって計画されました。この計画の総奉行には川越藩主の松平信綱が、水道奉行には伊奈忠治(没後は忠克)が任命され、工事は庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)によって請け負われました。
工事の難航とその原因
工事は1653年(承応2年)4月4日に着工しましたが、多くの困難に直面しました。特に、水路の設計変更が大きな課題でした。当初の計画では日野から取水する予定でしたが、試験通水の際に水が関東ローム層に吸い込まれてしまい、流路を変更する必要がありました。その後、福生を取水口として試みましたが、ここでも同様の問題が発生しました。
解決策と工事の再開
これらの困難を乗り越えるため、松平信綱は家臣の川越藩士安松金右衛門を設計技師に起用し、新たな計画を立案しました。安松は複数の案を提出し、最終的に「羽村前丸山裾より水を反させ、今水神の社を祀れる処に堰入、川縁通り堤築立―」という案に従って工事を再開しました。
資金の問題と工事の完成
工事の途中で幕府からの資金が底をつき、玉川兄弟は自らの畑や家を売って工事費に充てました。追加資金として3000両が用意され、承応2年(1653年)11月15日に羽村・四谷大木戸間の開通に成功しました。そして承応3年(1654年)6月から江戸市中への通水が開始されました。
玉川上水の建設に関する記録
玉川上水の建設に関する記録は少なく、多くの詳細が不明です。しかし、安松金右衛門に関する記録は三田村鳶魚の『安松金右衛門』に詳しく記されています。
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