玉川上水の起源と工事計画を深ぼる

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玉川上水の起源と計画

玉川上水の建設は、江戸時代の1653年(承応2年)に始まりました。このプロジェクトは、江戸の飲料水不足を解消するために幕府によって計画されました。工事の総奉行には老中で川越藩主の松平信綱が、水道奉行には伊奈忠治(没後は忠克)が任命されました。工事の実施は庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)によって行われ、幕府からは6000両から7500両(現代の価値で約6億円から7億5千万円)の資金が拠出されました。

工事の難航と解決策

玉川上水の建設は多くの困難に直面しました。特に、水路の設計変更が必要となりました。当初の計画では日野から取水する予定でしたが、試験通水の際に水が関東ローム層に吸い込まれてしまい、流路を変更する必要がありました。その後、福生を取水口として試みましたが、ここでも同様の問題が発生しました。これらの困難を乗り越えるため、松平信綱は家臣の川越藩士安松金右衛門を設計技師に起用し、新たな計画を立案しました。

資金の問題と工事の完成

工事の途中で幕府からの資金が底をつき、玉川兄弟は自らの畑や家を売って工事費に充てました。追加資金として3000両が用意され、承応2年(1653年)11月15日に羽村・四谷大木戸間の開通に成功しました。そして承応3年(1654年)6月から江戸市中への通水が開始されました。

玉川上水の建設に関する記録

玉川上水の建設に関する記録は少なく、多くの詳細が不明です。しかし、安松金右衛門に関する記録は三田村鳶魚の『安松金右衛門』に詳しく記されています。

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